「今原禎治(元ジャフコ社長)さんを偲ぶ」
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今原さんに初めて会ったのは1983年の日本合同ファイナンス(現ジャフコ)内定式だった。力強い握手で、瞬間目眩がして倒れそうになった。その2日前まではある証券会社に入社するつもりだった。公開引受の仕事に憧れていた。ベンチャーキャピタルという仕事は面白そうに感じたが、学生に無名の会社の将来性がわかるわけがない。決め手は今原さんのビションだった。「俺っちの会社はマーチャントバンクを目指して株式公開する」
当時は野村證券、日本生命、三和銀行という大企業の関係会社にもかかわらず、今原さんが個人保証してまで借りないとやっていけない状況だった。1982年にチーム今原によって投資事業組合というスキームが日本に導入されベンチャー投資ができるようになった。日本のベンチャーキャピタル産業の歴史はここから始まった。
ジャフコが上場したのは1987年。ベンチャーキャピタル部門の赤字を消費者金融業界への融資でカバーした。アメリカの金融革命をつぶさに見ていた今原さんは消費者金融の成長性に強い確信を持っていた。ベンチャーキャピタルはインディペンデントでないとダメだ。投資判断は自己責任。金も人も親会社に頼っていては投資はできない。日本電産、ソディック、ユニデン、加賀電子、第一臨床検査センター(現アインファーマシーズ)…。今原さんは大胆な投資を行い、莫大なキャピタルゲインをもたらした。
卵焼きのあじかん(広島)への今原さんとの同伴外交では、その切り口とスケールの大きさに感激した。迷う経営者に上場できると言い切る。10億円単位の大型ファイナンスを提案する。今原さんの気迫に先方経営者も圧倒される。分離型新株予約権付社債を活用した資本政策を提案する。最後の徒弟制度と言われるベンチャーキャピタル業界で、入社1年目の私が投資する事ができた。
今原さんにはオーラと同時にもの凄い緊張感があって周囲はいつもピリピリしてた。信頼を裏切る人には、投資先経営者であっても、非常に厳しかった。広島では一度だけカラオケをご一緒させていただいた事がある。あの時、汗を拭いながら歌ってくれた今原さんを忘れられない。
ベンチャーキャピタル産業の創業者であり偉大な企業家。大成功への戦略を著し、荒海に独り行く。あれから30年経ちながら、まだ遥か彼方を行く今原さん。心よりご冥福をお祈りいたします。
【IPOアラカルト】消費者金融業とIPO(出原 敏 )
【今原 禎治 氏(いまはら・ていじ)】
1926年 北海道生まれ
1951年 北海道大学卒業後、野村證券へ入社
1971年 野村證券取締役就任、1975年常務取締役
1979年 日本合同ファイナンス(現JAFCO)社長就任
1987年 JAFCO店頭公開
1993年 日本アセアン投資(現JAIC)社長就任
1996年 JAIC店頭公開
1998年 未来証券(現みらい證券)社長就任後、名誉会長となる
2013年6月7日逝去
※ 写真はみらい證券様ホームページより引用(右・今原氏)
http://www.miraisec.co.jp/html/corp01.htm
※「THE INDEPENDENTS」2013年7月号 - p3より