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「「スティーブ・ジョブズを悼む」」

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國學院大学
教授 秦 信行 氏

野村総合研究所にて17年間証券アナリスト、インベストメントバンキング業務等に従事。1991年JAFCO に出向、審査部長、海外審査部長を歴任。1994年國學院大学に移り、現在同大学教授。1999年から約2年間スタンフォード大学客員研究員。日本ベンチャー学会理事であり、日本ベンチャーキャピタル協会設立にも中心的に尽力。早稲田大学政経学部卒業。同大学院修士課程修了(経済学修士)

スティーブ・ジョブズが逝った。

既に様々なメディアが取り上げ、彼の偉大な功績について語っているので、屋上屋を重ねるようなことをする積りはないが、確かに筆者も彼は人々に広く受け入れられる創造的なものを作り出す天才、企業家としての天才であったと思う。

1976年友人のウォズニアックとアップル社を創業、「Apple?」、「Apple?」という個人向けコンピュータを開発、その後「Macintosh」を世に出し、当時IBMの牙城であったコンピュータ業界において個人向けコンピュータ、すなわちパーソナル・コンピュータ(PC)時代の幕を開いた。1985年に一度アップル社を離れたが1997年に復帰、その後は、iPot、iPhone、iPadと次々に革新的な情報機器を世に送り出したことはご存じの通りである。

彼は正に「ビジョナリ―(visionary)」と呼ぶに相応しい人であったと思う。ビジョナリーというと、日本語では夢ばかり見ている夢想家のように聞こえるが、筆者はビジョナリーを「先が見える人」、「将来を見通せる人」と解したい。スティーブ・ジョブズには正にそうした「先を見通せる」能力があったからこそ次々と人々の生活を変えてしまうような革新的な製品を生み出せたのだと思う。

アップルのスティーブ・ジョブズというと、筆者はシリコンバレーの日本人企業家である曽我弘さんが話してくれた話を思い出す。

新日本製鉄の社員であった曽我さんは、同社の100%子会社をシリコンバレーに立ち上げる企画を提案し、1991年に社長としてシリコンバレーに来られた。その子会社は親会社の意向で閉鎖されたため、曽我さんは新日鉄を退社、自身の会社を1996年シリコンバレーで作られた。それが、DVDのオ―サリングソフトの開発を行うスプルース・テクノロジーという会社であった。事業は順調に進んでいたようであるが、諸般の事情で2001年会社の売却を決意される。そのスプルースの売却先がアップルあった。

売却話は短時間に進み、最後の結論は曽我さんとスティーブ・ジョブズ2人の話し合いで出されることになった。曽我さんはスティーブの要請に応じて1対1で面談し、売却を決められた。その話し合いが終了し別れ際にスティーブが曽我さんに掛けた言葉が“What’s your next?”であったという。つまり、スティーブは曽我さんに「次は何をするんだい」「次はどんな事業をやる積りかい」と聞いたわけである。

筆者は、この話を聞いてスティーブ・ジョブズは根っからの企業家で、シリアル・アントレプレナー(serial entrepreneur)なのだなと思った。シリアル・アントレプレナーとは、生涯次々と新しい事業・企業を立ち上げ続けて行く企業家達のことを指す。スティーブ・ジョブズは正にその典型的な人だったと言えよう。

偉大なるビジョナリーにしてシリアル・アントレプレナーだったスティーブ・ジョブズの冥福を祈る。

※「THE INDEPENDENTS」2011年11月号より