アイキャッチ

「スーパーダイエーと中内氏」

公開


元野村證券株式会社
公開引受部 出原 敏 氏

野村證券で長い間IPO業務に係わる。2008年定年退職し、現在は非常勤監査役及びIPOコンサルティング等の業務に従事。

6月10日にTOKYO AIM取引所へ、待望の第1号として創薬ベンチャーのメビオファームが上場申請をしました。7月15日には上場となる予定です。2008年12月の発足から雌伏2年余り、取敢えず片目が開きそうです。特異なのは、それまで日系の大手6社が名を連ねていたJ-Nomad(指定アドバイザー)に外資系のフィリップ証券がなったことです。成功すると今後のIPOに地殻変動を起こすかもしれません。

さて、過日流通科学大学を訪問する機会がありました。流通科学大学は流通革命を起こしたダイエーの創業者故中内功(実際は功のツクリは力ではなく刀)氏が1988年に私財30億円を投じて設立した、流通を科学的・総合的に研究する大学です。キャンパスの一角には中内氏が幼少・青年期を過ごした狭い2階家のサカエ薬局が移築されています。

中内氏は現在のユニクロの柳井氏、楽天の三木谷氏に勝るとも劣らない、流通に一大革命を起こした人物です。メーカーサイドにあった価格決定権を消費者(小売業)サイドが奪取するもので、メーカーから多くの反発を受けました。特に松下幸之助はこれを許さず、商品を卸さない松下電器産業(現パナソニック)との30年戦争は有名です。

中内氏の祖父栄(さかえ)は大阪の医学校を卒業後眼科医に、父秀雄は大阪薬学専門学校を卒業し薬剤師になっています。秀雄はやがて神戸でサカエ薬局を開業、これが現在流通科学大学内にあるサカエ薬局です。功は復員後、薬に関わる商売に手を出しますが、1957年に大阪郊外の千林商店街の中に小売りの一号店、主婦の店・ダイエーを開店、以後総合小売業に進出して行きます。ダイエーは大阪の大と祖父の名前の栄を合わせた大栄をカタカナ表示したものです。翌1958年には神戸・三宮に2号店をオープン、出店を加速して行きました。

1968年には先にサカエ薬品で袂を分かった次弟博に続いて、末弟力と出店政策について意見が対立、力は退社します。力の保有株式の買取りのため、銀行から30億円を借金、この返済のため中内氏は株式の上場を計画します。検討を始めてから2年後の1971年3月1日にようやく大阪証券取引所に上場します。同業者では名誉ある1号のIPOですが、上場日に中内氏は風邪をひき、当日はダイワハウスの石橋信夫氏が代役を果たしたとのことです。上場に合わせて社名を主婦の店ダイエーからダイエーに変更しています。ダイエーのIPOを嚆矢(こうし)に、以後1972年のイトーヨーカ堂(現セブン&アイ・ホールディングス)、1974年の西友ストアー(その後ウォルマート傘下)、ジャスコ(現イオン)、ニチイ(マイカルに変更後倒産、その後イオンが吸収)と大型スーパーのIPOが相次ぎました。

商店街中心のダイエーの出店政策は、店舗を原則自社物件とするもので、出店が拡大した時は日本一の不動産王と揶揄されたほどです。一方のイトーヨーカ堂が原則賃借方式であったのと対照的でした。同業者の多くが証券市場からの資金調達を活用したのに対し、ダイエーは豊富な不動産を背景に多くを借入金に依存しました。

1980年代になると中内氏はローソン、プランタン等次々とグループの拡大に奔走、流通中心の巨大グループを形成しました。この頃が中内氏の絶頂期であったと言えます。1990年代になると暗転し、本業のスーパーの不振に加え、バブルがはじけて地価が下落、莫大な借入金が致命的となりました。中内氏は晩年にはダイエーから離れ、わずかに流通科学大学に専念するのみでした。そして、2005年8月波乱に富んだ83歳の生涯を終えました。亡くなった時、ダイエー株はおろか自宅さえ無かったと聞いています。なお、ダイエーは2004年10月産業再生機構の支援を受け、その後イオン傘下に入っています。

中内氏は革命児でした。しかし、その激しく強烈な個性は多くの敵を作り、兄弟とは離別、後継者を得ることもできませんでした。中内氏は事業家ではありましたが、経営者ではなかったのかもしれません。

※「THE INDEPENDENTS」2011年7月号 - p11より