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「企業経営と相棒?その2」

公開


元野村證券株式会社
公開引受部 出原 敏 氏

野村證券で長い間IPO業務に係わる。2008年定年退職し、現在は非常勤監査役及びIPOコンサルティング等の業務に従事。

ホンダの本田と藤澤の関係がどちらかと言うと本田の片思いであったのに対し、ソニーの井深と盛田は相思相愛の仲であったと言えます。

井深と盛田は戦前、海軍の研究会でたまたま一緒になり、その時以来盛田は井深に惹かれるものがあったようです。一方の井深は盛田の洗練されたセンスが記憶に残ったようです。

井深は1908年生まれ、本田と違い早稲田大学理工学部を出たエリートです。小さい頃からとにかく機械いじりが好きで、特に無線には目がなかったようです。

一方、盛田は1921年生まれで、愛知県で300年続いた有名な醸造家の長男でした。井深同様、幼少より機械いじりに夢中なり、家が醸造業にもかかわらず大阪大学の理学部物理学科を卒業しています。盛田のこうした背景はソニーのその後の発展に大きく寄与することになります。1946年5月、ソニーの前身である東京通信工業株式会社の設立には際しては、常務取締役として参加するとともに、資金面でも大変協力しています。

井深も盛田もともに理系でしたが、特に井深の研究に対する執念は凄い物があったようです。盛田も本来研究者でしたが、実家が醸造業を行っていたこともあり、経営感覚は生来持っていたのでしょう。次第に井深の技術と盛田の経営戦略に職能が分化していきます。

テープレコーダーの国内での販売に失敗し、瀕死の憂き目に会いますが、盛田は販売戦略とマーケットリサーチを早くから重視。特筆されるのは戦後の傷もまだ癒えない1953年に渡航。海外市場の開拓をはじめます。SONYのブランドを1955年から使用し、1958年には社名をソニー(当時、社名の登録は和語とされていました)に変更しました。1961年には日本企業として初めての米国預託証券(ADR)を発行。アメリカでの資金調達に成功しています。なお、ソニーは設立後9年目の1955年に当時の店頭市場に公開し、また、1958年に東証に上場しています。

その後は世界のSONYを目指して海外戦略を推し進め、海外での評価が、ブーメラン効果のように、国内市場においても不動のブランド力を築いてゆきます。ソニーはトランジスターラジオ、トリニトロンテレビ、ウォークマンなど次々に時代を画するヒット商品を生んでゆきました。井深の技術力と盛田の経営センスが世界のソニーに導いて行ったと言えるでしょう。盛田は発想が豊かで高潔な井深をいつも尊敬していましたし、井深も盛田のファイトとセンスのよさには脱帽でした。二人は馬が合う仲だったのでしょう。

本田・藤澤と井深・盛田の関係は他にも共通点があります。それは本田と井深の血液型がA型、藤澤と盛田のそれがO型であるということです。信長と秀吉もこの関係にあります。企業経営といった点では、A型で技術屋の社長とO型で戦略家の相棒とは相性がいいのかもしれません。

最近のベンチャー企業を見ていますと、創業者オーナーの圧倒的な存在感に比べ、NO2と言われる人材がいないのが気になります。IPOのメリットに、優秀な人材を得るということがありますので、上場前にこれを求めること自体、無理があるのかもしれませんが、人との出会いは大切にしたいものです。

※「THE INDEPENDENTS」2010年5月号 - p16より