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「企業経営と相棒?その1」

公開


元野村證券株式会社
公開引受部 出原 敏 氏

野村證券で長い間IPO業務に係わる。2008年定年退職し、現在は非常勤監査役及びIPOコンサルティング等の業務に従事。

現在の大会社の多くが実は戦前からのものであり、国策会社、財閥系あるいはその下請けから発生した会社が多いのです。

その中にあって、戦後派企業の代表がと言われるのがホンダとソニーです。今では両社とも創業者が亡くなっており、ベンチャー企業の代表であるといっても何か古い話になってしまいました。

戦後の混乱期野は多くの企業が設立されましたが、日本を代表するグローバル企業となったのはこの両社です。二股ソケットを引っ提げて、松下幸之助が築いた今のパナソニックも、戦前からの企業です。

ホンダとソニーは似た所があります。それは両社とも早い時期からいい相棒(パートナー)がいたということです。

ホンダの創業者の本田宗一郎は1906年に今の浜松市で生まれ、高等小学校(今の中学校、後に浜松高等工学校?今の静岡大学の聴講生となる)を卒業。夢見る発明家あるいは技術者として、天才肌で天衣無縫の人間ですが、どうも経営に関しては向いていなかったようです。しかし、本田には藤澤武夫という名参謀が付きました。

1946年に本田技術研究所がスタートします。当初本田自身は自動車修理工に過ぎなかったのですが、旧陸軍の無線機発電用エンジンに出会い、これを分解して自転車に取り付け、電動機付き自転車(今のバイク)にしてしまいました。1948年には本田技研工業株式会社を立ち上げ、本格的にオートバイ製造に乗り出します。初めは好調そのものでしたが直に在庫の山となり、1949年には資金繰りが逼迫、倒産の危機に瀕します。ここで登場するのが1910年生まれ、当時福島県で製材業を営んでいた藤澤武夫です。二人は共通の知人石田退三(後のトヨタ自動車社長)の紹介で出会いましたが、本田は「言葉では説明できない運命的なものを感じた」とのことです。藤澤はそうでもなかったと言っており、両者の違いがその後の二人の関係を象徴しています。常務として入社した藤澤はその後販売、財務に手腕を発揮、経営危機を乗り切りました。その後全国の自転車店を販売店に取り込むことに成功。一気に販売店の拡大に成功します。後に自動車に進出しますが、この販売組織が力を発揮しました。陽の本田が目立ちますが、そのうしろには絶えず藤澤がおり、本田もそれを頼りにしていたのです。経営に関しては実質上藤澤が切り盛りし、藤澤自身「本田技研の経営を担ったのは私でした」というくらいですから、実際そうだったのでしょう。なお、ホンダは設立9年目の1957年に上場しています。

二人は性格も正反対。二人は絶えず緊張関係にあったと言われています。本田の技術があればこそ、藤澤の経営戦略があり。藤澤がバックにいればこそ本田は安心して技術開発に専念できました。それぞれの得意分野で全力を尽くす。そんな相棒をお互いに認め合える仲でした。最後に、藤澤は本田に引導を渡し、ともに経営の第一線を引退しました。

「こんなやんちゃ坊主にはこれ以上付き合ってられないよ」というのが藤澤の本音だったのでしょうか、引退後、藤澤は東京で好きな骨董屋を営んでいたそうです。

※「THE INDEPENDENTS」2010年4月号 - p17より