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「労働市場の流動化」

  インデペンデンツクラブ代表理事 秦 信行 氏

早稲田大学政経学部卒業。同大学院修士課程修了(経済学修士)。野村総合研究所にて17年間証券アナリスト、インベストメントバンキング業務等に従事。1991年JAFCO に出向、審査部長、海外審査部長を歴任。1994年國學院大学に移り、現在同大学名誉教授。1999年から約2年間スタンフォード大学客員研究員。日本ベンチャー学会理事であり、日本ベンチャーキャピタル協会設立にも中心的に尽力。2019年7月よりインデペンデンツクラブ代表理事に就任。

 

 先日の日経新聞の1面「春秋」に、江戸時代には「長松」という名の丁稚が沢山いたという話が出ていた。その「長松」は手代になれば「長吉」、番頭になれば「長兵衛」などと名前を変え、少しずつ給金も上がり、生涯お店のために働いたのだという。要はそれが日本的経営の終身雇用と年功序列システムのオリジンだというわけだ。

 終身雇用と年功序列は2つ相俟って意味を成す。会社に入る20代前後は当然経験もないので生産性(仕事能力)は低い。それが会社に慣れてくれば能力は向上する。仕事の能力が上がると給与は高くなるが日本の場合は年功でそんなには上がらない。40代を過ぎると個人差はあるとしても徐々に能力は落ちてくる。仕事能力と給与がリンクしているとすると、40代を過ぎると当然給与は下がるはずなのだが年功序列で下がらない。

 仕事能力が向上する若い頃は能力に比べて給与は安いかも知れないが、生産性の落ちる50代以降に高い給与が約束されている組織では社員は辞めずに定年まで働く。この日本独特の人事システムは、欧米へのキャッチアップを目指し、均質で質の高い製品を生産し輸出することを目指した1980年代までの日本経済の下では上手くワークした。

 しかし、日本経済が世界のトップランナーになり、新しい革新的な製品やサービス、新事業を開発しなければ成長できない時代になると、終身雇用、年功序列によって人材が固定化する組織では太刀打ちできない状態になった。革新的な製品や事業の開発においては、多様な経験を持った人材の多様な知識や知恵が必要だからである。

 筆者が昔聴いた話なのだが、ある老舗中堅文具企業の2代目社長が就任に際して、ある別業種の大手メーカーの社長に頼んでその会社の社員を10人程度まとめて貰い受けた上で、来てもらった人達に出来るだけ以前の大手メーカーの働き方を変えないようにして欲しいと頼んだという。2代目社長は異分子を入れることでの化学反応に期待したのだ。その効果はその後のファンシー文具の開発などに生きたように思う。

 代表的なイノベーションの産業クラスターであるシリコンバレーの住民の約3人に1人は海外生まれだ。人種構成をみると白人系、アジア系、ヒスパニック系がほぼ3分の1ずつとなっている。加えて転職は一般的で労働市場の流動性は非常に高い。

 確かに日本でも21世紀に入って転職は増えているようだ。筆者の大学時代のゼミ生の卒業後5年目を見ると約半分くらいは転職している。とはいえ、依然新卒採用は一律に一斉に行われているようだし、ジョブ型採用が増加しているようだが、メンバーシップ型採用は依然主流であることに変わりはなさそうだ。

 勿論、人事制度は企業全体の事業戦略に沿って考えるべきであり、終身雇用・年功序列という旧来の日本的人事制度がすべて悪いというわけではない。しかし、今まで世の中になかった革新的な事業を展開する必要のあるスタートアップを育成、拡大するためには、人事面において人材を多様化することの意味は大きい。その意味でも解雇規制の緩和など、日本の労働市場の流動化を更に推し進めることの重要性は大きいといえる。



※「THE INDEPENDENTS」2023年7月号 掲載 - p3より
※冊子掲載時点での情報です