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「産業クラスターとしてのシリコンバレー」

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インデペンデンツクラブ代表理事
秦 信行 氏

早稲田大学政経学部卒業。同大学院修士課程修了(経済学修士)。野村総合研究所にて17年間証券アナリスト、インベストメントバンキング業務等に従事。1991年JAFCO に出向、審査部長、海外審査部長を歴任。1994年國學院大学に移り、現在同大学名誉教授。1999年から約2年間スタンフォード大学客員研究員。日本ベンチャー学会理事であり、日本ベンチャーキャピタル協会設立にも中心的に尽力。2019年7月よりインデペンデンツクラブ代表理事に就任。



産業クラスターとは、ハーバード大学のマイケル・E・ポーターが提唱した考え方である。クラスターという言葉は「ブドウの房」とか「群れ」を意味する言葉で、地域の大学、研究期間、企業、自治体、などが地理的に集積し、相互の連携・競争を通じて新たな価値創造が行われる状態を言う。その意味で産業クラスターは産業集積の一つのあり方といえるもので、最大の特色でもあり目的でもあるのは、単なる集積の外部効果といった産業集積のメリットに留まらず、継続的にイノベーションを生みだすための仕組みがビルトインされた産業集積だと言うことであろう。

日本では2000年以降、経済産業省が「産業クラスター計画」、文部科学省が「知的クラスター創成事業」という形で、それぞれ全国で20近くのプロジェクトが実施されてきた。これは1990年代以降、日本の産業の国際競争力が劣化する中で、新規産業や事業の創生が強く求められたからだといえよう。だが、残念ながら経産省の「産業クラスター計画」にせよ、文科省の「知的クラスター創生事業」にせよ、その後の政権交代の影響もあり、必ずしも上手く進展していないようだ。

その点、米国西海岸のシリコンバレーは、現在も世界で最も成功した産業クラスター、それもハイテク産業クラスターだと言うことが出来よう。シリコンバレーの歴史については様々に書かれているのでそれらを見て頂ければと思うが、極簡単に要約すると、元々シリコンバレーはプルーンを主な産出物とする農業地帯であったが、第二次大戦後1956年にノーベル賞受賞者で地元出身のウィリアム・ショックレーがショックレー半導体研究所を作り、そこから半導体開発会社が次々とスピンオフしたことで、1970年代のシリコンバレーが一躍半導体産業の集積地になっていった。ちなみにシリコンバレーという名称は、半導体の基板材料であるシリコンに由来するものである。

シリコンバレーの半導体産業は、その後1980年代になると日本の半導体産業に押され苦境に陥るが、その後のシリコンバレーはPC、バイオ創薬、移動体通信、そしてインターネットといった新しいイノベーションが次々に生まれ、半導体に代わってハイテク産業の集積地、すなわちハイテク産業クラスターに変わっていった。

では、シリコンバレーがハイテク産業クラスターとして成功した要因は何なのか。このことについても色々と語られてきたので、屋上屋を重ねる積りはないのだが、ここでは2点を上げて置きたい。

一つは、既に指摘されていることでもあるが、重要な要因だと思うので敢えて書いておくと、労働市場の流動性の高さと人々の関係の緊密性である。このことはエンジニアの採用などが比較的スムースに行くことに繋がっているように思う。リファラル採用(自社の社員の紹介などによる採用)が多いと思われるシリコンバレーでは、自社内にかつて一緒に働いた経験を持つ人が少なからずいる結果、この人ならこの仕事を任せられると思える人を紹介できる状態になるからだ。

もう一つは、地元のコミュニティのバックアップだ。先頃日経新聞に「日本語学べる教室がない」という記事が出ていたが、シリコンバレーでは午前中と夜、英語を学べる教室が数多く開かれていた。加えてその英語教室は、私の記憶ではシリコンバレーに住民票があればフィーなしで学ぶことが出来ていた。しかも英語を教える先生は、過去に教員歴がある人だと聞いた。そぅした地元ぐるみの支援もあってシリコンバレーは成功した産業クラスターになったように思う。

※「THE INDEPENDENTS」2022年12月号 掲載
※冊子掲載時点での情報です