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「渋沢栄一に思うこと」

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國學院大学
教授 秦 信行 氏

野村総合研究所にて17年間証券アナリスト、インベストメントバンキング業務等に従事。
1991年JAFCO に出向、審査部長、海外審査部長を歴任。
1994年國學院大学に移り、現在同大学名誉教授。1999年から約2年間スタンフォード大学客員研究員。
日本ベンチャー学会理事であり、日本ベンチャーキャピタル協会設立にも中心的に尽力。
早稲田大学政経学部卒業。同大学院修士課程修了(経済学修士)



 この原稿を書いている今日は4月13日土曜日、いよいよ「平成」の時代も残すところあと半月強となった。別に「平成」に恨みがあるわけではないが、振り返ると「平成」の30年は残念な時代だった、と思う。「昭和」は「明・暗」半ばする時代で、大雑把に言えば前半が「暗」で後半が「明」、ただ、後半の「明」が余りにも輝かしく目立つものであったが故に、「平成」に入って「明」を持続させるための速やかな構造改革が必要だったにも拘らず手間取ってしまった時代だったように思う。

 その意味で筆者は5月から始まる「令和」に改めて「令和維新」を期待しているのだが、それはともかく、それに先立ち先日、日本の紙幣の「顔」が20年ぶりに刷新されることが発表された。1万円札の「顔」は福沢諭吉から日本資本主義の父といわれる渋沢栄一に、5000円札は樋口一葉から政府の女子留学生として6歳で渡米し帰国後津田塾大学を創設した女性教育者の津田梅子へ、そして1000円札は野口英世から同じ医学者で近代日本医学の父と言われる北里柴三郎にそれぞれ変わることになる。この紙幣の「顔」の刷新は偽造防止という技術的な理由もあると思うが、元号が「平成」から「令和」に変わり新しい時代の幕開けとなることをより意識づける意味合いも当然あるように思う。ただ、実際に紙幣の「顔」が変わるのは5年後、2024年度の上期からになるそうで、もっと早く実現できないのかと思わないではない。

 1万円札の新しい顔になる渋沢栄一は言わずと知れた明治時代の大実業家である。元々はネギで有名な現在の埼玉県深谷市の豪農の出で、若い頃は尊王攘夷を目指す過激分子の一人でもあったようだが、その後一橋慶喜に仕え慶喜が将軍となって幕臣となる。彼が実業家としての才を開花させるにあたっては、1867年慶喜の異母弟である徳川昭武の随員としてフランスに渡航し、パリで開かれた万国博覧会をはじめとして欧州各国の社会や産業を具に視察し、見聞を広げたことが大きく影響していることは間違いない。

 1868年に帰国し一時大蔵省の官僚として働いていたが1873年に退官、その後の民間人としての活躍は皆さんご存知の通りである。銀行や株式会社制度の普及・確立、証券取引所の設置など、加えて生涯で500社以上の会社を作ったともいわれ、正に日本の資本主義社会建設に大きな貢献をした人物の一人なのだ。それだけの人物が何故今まで紙幣の「顔」として採用されなかったかについては不思議に思われるが、実は50年前に検討されたことはあったようだ。その時の対抗馬は伊藤博文、何故伊藤博文が選ばれて渋沢が選ばれなかったのか、その理由は渋沢には偽造防止上意味のある髭がなく伊藤にはあったからだという。

 そんな話はともかく、日本の近代化を民の力で推し進める上で渋沢栄一の役割は非常に大きかった。中でも彼は『論語と算盤』という書物を残しているように資本主義の下での倫理的な問題にも強い関心を示し社会貢献活動にも幅広く関与している。同時に「合本主義」という考え方を打ち出し、私利の追及が公益に繋がる仕組み、民主的な経済活動が約束される仕組みを構想していた。会社の不祥事が相次ぐ昨今、今回の渋沢栄一の紙幣の「顔」への採用を契機に、改めて彼の考え方や思想を思い出し、再検討してみる必要があるように思う。

 それにしても2000円札はどこに行ったのであろうか。



※「THE INDEPENDENTS」2019年5月号 掲載
※冊子掲載時点での情報です