「日本のVCの多様化」
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國學院大学
教授 秦 信行 氏
野村総合研究所にて17年間証券アナリスト、インベストメントバンキング業務等に従事。
1991年JAFCO に出向、審査部長、海外審査部長を歴任。
1994年國學院大学に移り、現在同大学教授。1999年から約2年間スタンフォード大学客員研究員。
日本ベンチャー学会理事であり、日本ベンチャーキャピタル協会設立にも中心的に尽力。
早稲田大学政経学部卒業。同大学院修士課程修了(経済学修士)
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日本で初めてVCが生まれたのは1972年だとされる。京都の経済同友会がボストンに視察団を送り、ルート128号線沿いに生まれた新しい技術を担った中小企業群を調査したことに端を発する。彼らはそこで新しいタイプの中小企業を資金面で支援するベンチャーキャピタルというリスクマネーの存在を知る。京都に戻った彼らはそうしたリスクマネーの必要性を認識し、1972年同友会メンバーの共同出資で京都エンタープライズディベロップメント(KED)というVCを京都に設立する。
同じ頃当時の通産省もベンチャーに注目、ボストンに視察団を送り米国最初のVCと言われるARD(American Research Development)などを京都同友会同様調査した。その結果、日本でもVC設立の機運が盛り上がり1972年から1974年までの3年間に7社、KEDを含めると合計8社のVCが日本で生まれることになった。
しかし不思議なことに、これらのVCはいずれも金融機関や事業会社の関係会社であったためか、投資資金を第三者の出資者からファンド形式で集めるVCではなく、いずれも所謂プリンシパル投資の形態であった。どうやらその頃にはまだ日本でVCファンドの存在が認識されていなかったようなのだ(既に米国ではあったのだが)。
ようやく1982年になって日本合同ファイナンス(現ジャフコ)が民法上の組合形式のファンドを組成する。それによって日本のVCも資金調達力が強化されると共に管理運用手数料という謂わば日銭が稼げる状態になった。その結果日本のVCの経営は安定し、それ以降地銀系など新しいVCの参入が相次ぎ、日本のVC業界も発展していくことになる。
それから約20年、日本のVCは主として金融機関を親会社とするVCが中心で、米国のように個人が運営するVCは出なかった。日本で既存の金融機関系VCなどから個人が独立する形で所謂独立系VCが登場するのは1990年代末のことであった。
それからまた約20年、最近は既存のVCでの経験はない代わりに、20年前から増え始めた独立系VC、キャピタリストに支援された若手のキャピタリストが率いるVCも増加している。彼らのファンド規模は小さいけれども、ベンチャーのシード段階で資金を提供すると同時に起業家に寄り添う形で革新的な事業の確立を支援している。
さらに2010年以降には日本でもシードアクセラレーターと呼ばれる事業者も数多く出てきている。彼らは会社設立の実務など起業・創業プロセスを教えるプログラムを用意し、事業アイデアを持って起業を準備している人たちを公募で集め、選考後数か月間の集合的な教育研修を行うと同時に少額の資金も出して実際に事業をやらせる、つまりベンチャーに創業後の死の谷を取り敢えずは渡らせるといった事業を展開している。
いずれにしてもVCの多様化は日本でも進んでいる。とはいえVCの本来的な役割は、リスクマネーの提供と同時に起業家の横にあって起業家を経営面で支援することで今まで世の中になかった新しい事業を社会に定着させることにある。そのことは忘れないで欲しい。
※「THE INDEPENDENTS」2018年1月号 掲載